>>古川 先生のお話には日本の近代史に名を連ねた傑物たる方々が次々と出ていらっしゃるのでいつもびっくりしてしまうのですが、なかでも私が最も驚いたのは、石原莞爾さんの私邸に単身で乗り込んで行かれた時のお話なんです。
>>古賀 あぁ、僕が25歳の頃ね。若かったからね、石原さんに「あんた一人でいったい何ができるんだ!」なんて、生意気なことを言ってね。
>>古川 突然訪ねて行かれたんですよね?
>>古賀 そう、紹介もなしに突然行ったの。僕に生意気なことを言われたものだから石原さんも最初は「お前、帰れ!」なんて言い返してね。玄関先で喧嘩になったんだよ。だけど僕が「あんたのぐるりはだらしないじゃないか、俺のぐるりの方がよっぽど優秀なのがいっぱいいるんだ」と言ったらね、石原さんはびっくりしたけど納得したね。「まぁ、上がれ」と言ってくれたよ。認めてくれたんだよね。
>>古川 先生がいつも言われる「ぐるりが大事」ですね。ぐるりとはブレーンであり腹心なわけですね。
>>古賀 そうね。石原さんは天才ですよ。でも石原さんを使いこなせる時代のトップがいなかったよね。時代が混乱していて情報もこんがらがっていてね。僕たちはわずかな情報を組み合わせて、軍の情報は「おかしい」と思ったけど、偉い人たちはまちがった情報をみんな信じちゃったりしてね。今思えば、あんな馬鹿な戦争はありませんでしたよ。満州にしてもね、今の人は何で満州に日本人がどんどん入っていったのか理解できないと思うけど、その当時はアメリカとソ連の両方の大国に挟まれて日本は苦労していたの。だから、石原さんは満州国を作ってソ連の脅威をやわらげようとしたんだよね。結局はうまくいかなかったけど。満州は結果的には持たない方が良かったよね。民族の抵抗っていうのは、本当にすごいから。いくら文明が進んでも今も世界中のいろんなところで民族の抵抗が起きていますからね。
>>古川 民族の抵抗・・・。
>>古賀 そう。民族の抵抗には勝てないんだ。今のイラクなんかだってそうでしょう?僕はこれからはもう、国と国とか思想と思想なんていう戦いやってる場合じゃないと思うの。人間と自然の戦いに目を向けないとね。
>>古川 そう考えると、あの時代から「都市解体・農耕一体・簡素生活」を日本再生の柱にしようとなさった石原莞爾さんは怖いくらいの見通し力がおありだったということでしょうね。
>>古賀 そうね。もう核兵器なんて造ってる場合じゃないよね。いかにして共存していくかだ。
>>古川 先生は宮崎龍介さんY子さんご夫妻ともご交流がおありだったとのことですが、いわゆる白蓮事件について、お二人から直接聞かれた事はありましたか?
>>古賀 いいや、直接に聞いたことはなかったねぇ。あまりにも有名な事件だったから。僕は父が福岡(の出身)なんだけれども、天神に伊藤傳右衛門の赤銅御殿があってね、婆やに「ここが赤銅御殿ですよ」って連れて行ってもらった記憶があるなぁ。すごく立派な門構えだったよ。母が文芸をやっていてね、白蓮さんに憧れていたから、よく話を聞かされたなぁ。まさかその後東京でその「筑紫の女王」本人と会えるなんて思わなかったけどね(笑)。しかもね、あの終戦の前の晩、龍介さんと白蓮さんはちょうどうちへ泊まっていたんだよ。
>>古川 えっ?それはすごいお話ですねぇ!いったい宮崎ご夫妻とはどのようにして出会われたのですか?
>>古賀 銀座の和光の近くのビルの6階にね、龍介さんが所属する弁護士会が入っていたの。僕は5階に出入りしていてね。たまたま5階を使っていた藤江さんという人がいてね。この人は東條の次に総裁になった小磯國昭の秘書官だったんだけど、明治大学の講師で僕と同じ九州出身だったから可愛がってくれてね。それで学生時代から、5階を事務所代わりに使っていたんだよね。そのビルで龍介さんとは知り合ったんだよね。当時僕と龍介さんの戦争に対する考え方が非常に近かったんですよ。それで気が合ってね、その後僕は寮をやったんですけど、龍介さんはそこに5、6回は来てくれたね。
>>古川 先生は宮崎邸に行かれたことはあるのですか?
>>古賀 うん、ありますよ。雑司が谷にあってね。僕はその頃中野にいたから近かったんですよ。そうそう、僕はその家の登記簿謄本を見せてもらったことがあるんだけど、孫文の登記になっていてびっくりした記憶がある。孫文といえば龍介さんの父上の滔天さんと強いつながりだよね。滔天さんはね、革命家で貧乏して浪曲師までやった人ね。
>>古川 お二方の道行きを滔天さんがずいぶん応援なさったそうですね。
>>古賀 そうだね、その奥さんの槌子さん、龍介さんの母上だけど、この人も苦労したけど、よくできた人だったらしいね。
>>古川 昔は男性も立派でしたけど、女性も立派な方が大勢いらっしゃったんでしょうね。ところで、大正三美人の白蓮さんはやっぱりお綺麗でしたか?
>>古賀 綺麗でしたよ。白蓮さんは八頭身なんて言葉がまだ無い頃から八頭身だったの。二百三高地って当時流行った髪形していたなぁ。
>>古川 下田歌子が流行らせた髪形ですね。
>>古賀 白蓮さんは少し白髪が入っていたけどね、姿勢が良くって整った顔立ちでそりゃ素敵だったよ。僕はお茶を出されて「どうもすみません」なんて言ったくらいだったけどね。白蓮さんはお茶の会とかではお話しているみたいたったけど、普通のお客さんとはあまりしゃべらなかったなぁ。龍介さんもあまりおしゃべりな人ではなかったね。でもとっても男前な人でね、実にお似合いのご夫婦でしたよ。
>>古川 宮崎夫妻が駆け落ちなさる前の往復書簡は700通くらい残っているらしいんです。その一部を本で見たのですが、まるで電子メールだったのではないかというくらいのスピードと量なんですよね。
>>古賀 あぁそうなの?そういうのが残っているの?いいことだね。
>>古川 お二人は、弁護士と歌人という、いわば文章構成のプロでありながら、情熱のあまりにたどたどしくなっていく箇所があるんです。そこが私は好きなんです。
>>古賀 あの頃、みんな政治も恋も一生懸命やっていたからね(笑)。立派な男性ほど色恋も激しかったんだ(笑)。
>>古川 先ほど、先生が寮を開かれていたというお話をされましたが・・・。
>>古賀 あぁ、僕が22歳だったかな、戦時中だったんだけど疎開した先輩の家がいっぱい空いたからね。新大久保で寮をやったんですよ。村山(元首相)なんかはここに集まって来ていたんだよ。
>>古川 当時はそういう塾や寮がたくさんあったとのことですね。幕末の松下村塾のようなおもむきだったのでしょうか?
>>古賀 敬天塾なんかもあちこちににあったからね。うちには佐々弘雄や永田清、谷川徹三なんかも出入りしていたなぁ。「ここには酒がある」っていうんでみんな集まってきてね。酒飲んじゃ「うまいなぁ」とかね、そんなことばっかしだったこと、よく覚えているよ(笑)。ただ時々ね、たいした有名でもない奴がすごいことを発言してね、感心したことがあったなぁ。
>>古川 あぁ、それは素晴らしいお話ですね。先生のお若い頃は学生もみなあちこちで天下国家を真剣に論じていましたか?
>>古賀 先週ご一緒した全生庵の勉強会にもずいぶん若い方がみえていたよね。でもみんな可愛らしいんだなぁ(笑)。そうね、僕らのころはもうちょっと荒っぽく論じたね。
>>古川 いまや巷において「若者が荒っぽく政治を論じる」などという場面じたいがなかなか見当たらないわけですが・・・。
>>古賀 まぁね、政治を知っていても論ずるのが巧くてもどうしようもないこともあったけどね。当時「相当に頭がいいな」と思った人もずいぶんいたけど、戦争の混乱時にはそんなことよりも強引な人が勝ったの。正論が通らなくて強硬論が勝ったのね。それから、政治を知らないというよりも今の若い人は経験していないことが、どうしようもないよね。人間っていうのはね、経験したことは残るの。考えたことは消えちゃうけど。今の人は戦争を経験していないからね。経験していないことの過ちっていうのはね、また繰り返す可能性がないとは言えない。まぁ、こればっかりはわからないですけどね。もう日本はあんな馬鹿な戦争はしないだろうけどねぇ。
>>古川 私は、長い激動の時代を体験され多くの史実をつぶさにご覧になっていらした先生が現代のわたしたちに対しなんらお説教をなさらず、ただ、「勉強会を開きなさい」とおっしゃることをいつも考えてしまいます。先ほど先生は、戦時中にご自身の寮で「たいした有名でもない方のすごい発言に感心なさった」というお話をされました。私はそこが先生のすごさだと感じ、勉強とはそうあるべきだと教えられているように思います。
>>古賀 これからもどんどん勉強会を開きましょうよ。集まって話すことが大事ね。なるべく若い人を集めて。
>>古川 はい。先生、これからもどうかご指導をお願い申し上げます。